「ポスト・ジャズ」特集をめぐって。

STUDIO VOICE』5月号、「特集 Finding New Jazz Guild ― ポスト・ジャズのサウンド・テクスチュア」を購入。菊地成孔大友良英不破大輔らのインタビュー、その周辺の動きをフォローする記事やディスクガイドと、けっこうおもしろく読みました。
ただ、『ユリイカ』の「ポスト・ノイズ」があったばっかりなので、どうしてこう立て続けに「ポストなんとか」っていう話がでてくることになったんだろう?っていうことをちょっと考えてみたくなったりもするかも。
ま、「Guild」なんて言ってたりするし、要するに菊地〜大友〜渋さとかのあたりの多岐にわたる動きをなんとかひとくくりにして語りたいってことなんだろうけど、それにしても、なんでそこで「ポスト・ジャズ」っていう言い方になるんだろう?っていうのは残る。
特集冒頭のテクストなんか見ると、編集の意図としては、どうもムリやりでもいいからとにかく歴史的な時間軸のなかに現在を位置づけたいっていうかんじなのかな。あのへんの音楽は「新しい」んだっていうお話にとにかくしたいっていう。『ユリイカ』の鼎談のなかで「いまの若い子は歴史性のある話を求めてる」みたいなことを菊地さんが言ってたけど、まさにそんなかんじなんだろうか。
ただ、いまあのへんが注目されてる状況っていうのを、「新しい」とかあるいは「越境」っていうようなことばで語り、「ポスト・ジャズ」と名づけることには、どうしても違和感が伴うような。この「ポスト・ジャズ特集」がどうもやたらと冷ややかな視線にさらされているように見えるのも、そのへんからきてるのかな。
でも、そこで一歩立ち止まるなら、じゃあ、そもそもいまあのへんが「熱い」みたいなことが言われてるのはどうしてなんだろう?っていうことになるのかな。これはここんとこ菊地さんや大友さんの動きを追っかけてる自分自身の問題ということにもなるけど、あのへんの動きがいま魅力的に見えているとしたらそれはどうしてなんだろう? そして、とりわけ菊地成孔という人がいまこれだけ人気者になっちゃってるのはどうしてなんだろう? っていうあたりのことを考えてみてもおもしろいのかも、って思ったりした。
そういう意味で、個人的には東琢磨岸野雄一・北尾修一による「みっつの主題からみる菊地成孔」という記事を興味深く読んだりもしたのでした。